男女共同参画を考える会

平成15年1月16日(木)午後1時より千葉市内(東横インポートスクエア)において開催いたしました、「男女共同参画を考える会」(自由民主党千葉県支部連合会主催)の講演内容を掲載いたしました。

【司会・谷田川 元 委員長】

県連が主催いたします公開の講演会にお越しいただきまして誠にありがとうございます。

私は男女共同参画検討委員会の委員長を務めております佐原市選出県会議員の谷田川元と申します。

今日の司会進行役を務めますのでよろしくお願いいたします。

今日は是非公開の場で、条例案の推進派と慎重派の専門家の方々に来ていただいて、公開の討論会を開きたいと、そういうことで企画してまいりました。

しかし、残念ながら、条例推進派の方から、是非この公開討論会に応じていいというお話は、今日現在頂いておりません。

詳しい話はまた後ほどさせていただきますが、少なくとも2月12日が2月県議会の始まりでございます。

ですから、その前までに是非日程の調整がつくならば条例推進派の方々に是非公開討論会に応じていただきたいと、そういう手紙を出しております。

ですから、そういったご返事があれば改めて条例推進派と慎重派の皆さんの公開討論会ができるものと希望している次第でございます。

そういった事情で、今日は予定を急きょ変更いたしまして、千葉県の条例案について非常に問題があると指摘されていらっしゃいます長谷川先生と高橋先生にお越しいただきまして、お二人の先生から講演をしていただき、そして、その後に質疑応答という形を取りたいと思います。

それではまず主催者であります自民党県連の政調会長である堀江秀夫県会議員からごあいさつを申し上げます。

(拍手)

【堀江 秀夫 政務調査会長】

皆さん、こんにちは。

ただいまご紹介いただきました政調会長の堀江であります。

今日は「男女共同参画を考える会」ということで開催をいたしましたところ、このように多くの方々がご参集をいただきまして、本当にありがとうございます。

そして今日は長谷川先生、高橋先生のお二人にお願いをいたしましたところ、快くお受けを頂きました。

そして、今問題になっております県執行部の出されました男女共同参画条例について、あるいはこれから自民党として作ろうとする自民党案、これの参考にということでお願いをしてございますので、皆さんもいろいろと勉強していただきたいと考えております。

千葉県としても、自民党としても、素晴らしい条例を作って、そして県民の方々に喜ばれるような、そういった条例を作るべく努力をしているところであります。

どうか皆さんの今後のご指導とそしてご協力を心からお願いを申し上げまして、あいさつに代えさせていただきます。

本日は誠にご苦労さまでございます。

よろしくお願いします。

(拍手)

【司会・谷田川 元 委員長】

それでは早速でありますが、まず長谷川三千子先生から講演をさせていただきたいと思います。

若干、私の方から長谷川先生をご紹介させていただきます。

長谷川先生は、現在、埼玉大学の教授であられます。

専門分野は哲学(比較思想)、そして日本文化論であります。

東京大学文学部を卒業後、昭和62年から現在の埼玉大学の教授をお勤めになっておられます。

特にこの男女共同参画問題に関しましては、文化問題、フェミニズム批判という形で活発に発言されておられます。

ちなみに先生の祖母に当たられる方が作家の野上弥生子さんであります。

そういった形で、今日は男女共同参画の千葉県条例が非常に問題があるということで先生のご講演をお願いしたところお引受けいただきました。

本当にありがとうございます。

それでは、長谷川三千子先生から約1時間ご講演を頂きますので、どうぞよろしくお願いいたします。

(拍手)

【長谷川 三千子 埼玉大学教授】

ただいまご紹介にあずかりました長谷川でございます。

今、主催者の方のお話にもありましたように、実は私、今日この会についてのお話を頂いたときには、この男女共同参画社会基本法を作るときの立て役者でいらした大澤真理さんご自身がいらっしゃるので、是非来ないかというお誘いを受けました。

私はもうこれは願ったりかなったりという、そういう思いで二つ返事でお返事を申し上げましたところ、実際にはいらっしゃれないと。

大変がっかりしておりますので、寂しいので、彼女のご本だけ携えてまいりました。

これはここの10年ばかりの間の特に顕著な現象なんですけれども、私ども、いわゆる保守派といわれる人間たちが、さあ、皆さん一緒に議論いたしましょうと、いわゆる革新派と呼ばれる方たちにお声を掛けますと、皆さん逃げておしまいになる。

開かれた保守、閉じられていく革新という、こういう形がここ10年ばかり特にひどくなっている思いがいたします。

ただ、これは私たち自身気を付けなければいけないと思いますのは、どうしてもそういう習慣が付いてしまうと、身内だけに通用するような、そういう言葉で、そういう話をするようになってしまう。

これは、まあ、そういう話し方が身に付いてしまったもので、革新の方たちも嫌がって出ていらっしゃらないんだと思うんですけれども、私はいつも、どんなところでお話をするときにも、今ここに全く正反対の考え方をなさる方がいらしていても十分に耳を開いて聞いていただけるような、そういう話をしようと常に心掛けております。

今日も実は、今日私の分担といたしましては、いわゆる男女共同参画社会の基本法に基づく条例を作るときにどういう心構えが必要なのかという原理論というようなところをお話ししたいと思うんですが、その際にも、本当にこの場に大澤真理さんがいらしても、彼女と対話ができるような、そういう姿勢で話をしていきたいと思っております。

今、ここにお集まりの方々は、こうしてわざわざウィークデーに集まっていただいた方々は本当に関心をお持ちの方々と思いますので、男女共同参画社会基本法に基づく条例を作る。

これがどんな重要な意味を持つのかということは既に十分心していらっしゃる方々だと思うんですが、改めてこれがいかに重要な問題なのかということをここで確認しておきたいという気がするんです。

これは大げさでも何でもなくて、本当に人間観そのものにかかわってくる、いわば哲学的な問題につながる、そういう重大な問題だというふうに私はとらえております。

で、どんなふうに重大かと言いますと、ちょっと耳新しい言い方で、皆さん、おやっとお思いになるかもしれませんが、「人間はどこまで生物なのか」という、こういう問題にかかわってくると思うんです。

もう少し正確に言いますと、人間というものが生物であるというその事実を我々はどこまでしっかりと見極めていったらいいのかという、こういう問題にかかわってくると思うんです。

考えてみますと、本当に人間というのは奇妙な生物ですよね。

例えば今はもう本当に冬の真っ盛り、大寒の、この関東地方でさえぶるぶる震えてしまうような寒い日なのに、今ここはもう本当にぽかぽか、一応上着は着ておりますけれども、上着を脱いでも大丈夫ぐらいにぽかぽかしております。

こんなに広い、我々の何百倍もあるような建物の中に座っている。

これ、何とも思いませんけれども、考えてみたら、地球上の生物で、こんなことをしている生物っていませんよね。

アリがアフリカで大きなアリ塚を作るなんていってびっくりしますけれども、でも、その中にこんなすごい暖房や光があって、そしてお昼間の青空の下のような、そういう生活を楽しめる。

こんな生物はほかにいませんね。

それから、例えば成田に行ってみれば、本当に人間は、我々一人一人2メートル飛ぶのがやっと、多分皆さんの中に2メートルの高さを飛べる方はいらっしゃらないと思うんですけれども、そんな生物があっという間に1日足らずで太平洋を飛び越えてしまえる。

本当に人間というのは考えてみると、もうスーパー生物、ウルトラ生物と言ってもいいような、そういう極めて特殊な生物です。

でも、では我々は本当に生物であることを脱し切ってしまったのかというと、決してそんなことはありません。

生まれ出て、育って、そして年老いて、やがて死んでいくと。

もうどんな生物もこういうサイクルをたどっていくわけですけれども、我々もそのサイクルを全く逃れることはできません。

私ももう本当にそのサイクルの大分終わりの方に差し掛かって、一生懸命髪を染めて入れ歯を入れてごまかしていますけれども、やっぱり生物としての在り方というものを逃れるわけにはいかない。

まあ、言ってみれば人間というものはスーパー生物であるという在り方と、でも、やっぱり生物であるという、この二つに常に引き裂かれて存在しているという、そういう存在者だと言ってもいいかと思います。

で、哲学者というのは、言ってみればその両方を常に眺めながら暮らして生きているわけでして、そういう意味で、人間がどうしても生物として「死」というものを逃れられないと、そういうふうなことがもう二千数百年来、哲学のテーマになってきたわけです。

ただし、それだけではないんですね。

人間が生物であるということに付随したもう一つ非常に大事なことがある。

これは何かというと、人間もまた雄と雌がいて、そして子供を産んで育てていく、そういうほ乳動物の1種類だということなんです。

これは余り古今東西の哲学者も注目してこなかったところなんですが、実は今まさにこれが問題になっているところだという気がするんです。

この男女共同参画社会基本法、ちょっと勉強なさった方は、今いわゆる「ジェンダー」という片仮名言葉なんですが、これが問題の焦点になっているということをあちこちでお聞きになっていらっしゃると思います。

この千葉の条例でもジェンダーという問題をどう取り上げるのかという、このことが大変大きな争点の一つになっております。

私は言ってみれば、この男女共同参画社会基本法の問題点はジェンダーという問題をどう考えるのか、ここに尽きると言っても大げさではないんではないかという気がするんです。

では、そのジェンダーというものはどういう考え方なのか。

これを今ちょっと簡単に、皆さんにとっては復習というような感じになると思いますが、改めて皆さんにご紹介してみたいと思いますが、これは基本的にはこういうことなんです。

確かに人間も生物であると。

で、その生物である、だから男性がいて女性がいる。

性別がある。

パスポートにもちゃんと性別が書かれる。

それはもういわば生物学的な事実、最低限の事実であって、例えばオリンピックでセックスチェックをするときには、ちょっと舌の後ろをこすり取って顕微鏡で見て、XY染色体があるか、XXであるか、それを見るという、本当に生物学的な、人間の力ではどうしようもない区別がある。

それがセックスという区別である。

ただし、我々が今こうやって普通に社会生活を営んでいるときに、例えば今こう見渡しても、ああ、女性の方は何人と、こう、すぐ外から見て分かりますね。

いちいち側に寄って、ちょっとすいません、染色体を見せてくださいなんてやらなくても、女性の方は女性の方、男性の方は男性の方、着ていらっしゃるお着物の色からも、髪型からも、それから仕草からも大体すぐ分かるという、こういうふうになっています。

で、そういう違いはどこから出てきているのかというと、これは決して単なる生物学的な性別ではなくて、そのあと社会的文化的に出来上がってきた、男性の方は背広をお召しになって、これもちょっと何か背広みたいですけれども、よくご覧になるとスカートをはいております。

そんなふうに、男性と女性で着る服が違う。

それから、いろんなお祭りの中でも男性の役割、女性の役割、様々に決まっている。

人間の生活のありとあらゆるところで、男性のもの、男性のやり方、女性のもの、女性のやり方、それが決まっている。

それがジェンダーの区別であると。

これが一番常識的な区別と言っていいかと思います。

で、この例えば大澤真理さんのご主張になっていらっしゃるような考え方というのはどういうものかというと、先ほど言ったスーパー生物、ウルトラ生物という言い方を使わせてもらいますと、人間というものはそもそもスーパー生物であり、ウルトラ生物である。

ここが人間の尊厳である。

だから、できる限り生物学的な性差なんていうものに足かせをはめられずに、スーパー生物振り、ウルトラ生物振りをみんなが発揮しなければいけない。

だから、後から社会的に出来上がった男女の差であるジェンダーというようなものは、もうできる限り振り捨てていくのが一番である。

そうするとそれが日本の活性化にもつながって日本再生の鍵であるというふうなことをおっしゃっていらっしゃるわけなんです。

これは、実はそれだけ聞くと、ああ、なるほどという気もするわけです。

日本人の人口が1億あって、今、大体その半分しか日本活性化のために働いていない。

そのあと半分が全部活性化されたら、これは日本再生になるんじゃないかと、だれでもそんなふうに思いたくなってまいります。

そういうちょっと見、なるほどと思わせられるような議論に惑わされないためにはどうしたらよいのかということを今ここでもう一度振り返ってみたいと思うんです。

実は、先ほど言ったように人間が生物であるというその事実は、単に人間がいつかは死ぬものであるという、そこだけに現れているのではない。

子供を産んで育てて、そしてそれを繰り返していかないと人類はたちまち滅んでしまう。

そういう意味ではどんな生物とも同じなんだという、そこにもう一度焦点を当てて考えてみたいと思うんです。

ここで、では肝心の生物たちはどうなっているのかと振り返ってみますと、実はこれが我々が想像するよりもはるかに彼らは文化的なんですね。

というのはどういうことかと言いますと、例えば子供を産んで育てる。

鳥だったら卵を産んで温めるというところから始まるわけですが、それは決して単に雄と雌がいればそこで卵が産まれる、そこで子供が産まれるというものではないんですね。

それぞれの生物のそれぞれの種に固有の、まあ、言ってみれば「繁殖の作法」というようなものがあるんです。

例えば面白い例をご紹介しますと、オーストラリアにはアズマヤドリ、日本語で訳した名前なんですが、アズマヤドリと呼ばれる種類の鳥がいるんです。

カラスよりもちょっと小さいくらいの大きさの鳥なんですが、この鳥が自分の身長よりも4倍ぐらいあるような東屋(あずまや)、簡単な作りなんですけれども、それを木の枝で作り上げるんです。

で、いろいろきれいな、ちょうどこんなブルー、これをもうちょっと鮮やかにしたようなブルーの鳥とか、あるいは白地にちょっと赤の入った種類、いろんな種類があるんですが、その自分の羽の色に合わせて、それにそっくりな木の実とか花とかを取ってきて、その東屋の周りに飾り立てるんです。

それをやるのは雄だけなんですね。

そして自分の立派な東屋を作って、きれいな飾り付けをして、そしてそこで雌が来るのを待つんです。

そうすると、雌は枝の上からそれを見ていまして、あっ、この東屋がきれいだと思うと、その東屋の中に入っていくんですね。

しかも、それだけではないんです。

雌が東屋に入ってくれたと見ると、雄は今度は自分で伴奏、チッチッチッ、チッチッチッと付けながら、その周りをこう、きれいな羽をできるだけ見せびらかすようにしてぐるぐる踊って回るんです。

それだけもうエンターテイメントをして、雌がうっとりして、初めてそこで結婚式が成り立つという、言ってみれば人間だったら簡単に、ちょっと今度劇の切符、ミュージカルの切符が手に入ったから一緒に行こうよと言うので済むところが、このアズマヤドリはまず劇場を作り、自分が音楽もやって、自分が踊って、そして気に入られたらという、大変な手続を取るわけです。

これはもう何というか、本当に文化と呼ばなければ失礼じゃないかという気がしてくるような、そんな作法を取らないと、このアズマヤドリは繁殖ができないわけなんです。

じゃあ、一体何でそんなことをするのかと生物学者に聞きたくなるんですが、生物学者も何でということは答えられないんですね。

もう本当に、生物って不思議なものだなと考えるよりほかないようなことなんですが、そこまで複雑にならなくても、ほとんど、ありとあらゆる動物たちがそれに似たような、例えば赤カンガルーだったら雄同士がお相撲をして力比べをして勝者を決定すると、そういったような様々な作法があって、そこで初めて繁殖ということが成り立っているわけです。

そうしてみると、何か動物たちにもジェンダーという言葉が使えそうだという気がしてきます。

ただ、一つ大きく違うのは、動物たちの場合には大多数の場合、だれに教えられなくても、何か年ごろになると雄は東屋を作り始めて、だれに、学校で教わったわけでも何でもないのに自分で飾りを集めてくるということをするんですね。

これを普通、我々は本能と言っているわけなんですが、本能という言葉がそこにまで使えるほど、そういう複雑なことまでが動物の場合には脳の内にインプットされている。

ところが人間の場合にはそういう複雑なことをするためにはどうしても何らかの教育が必要なんですね。

教育というのはこれは必ずしも学校で教わるということだけではない。

親たちを見ていて、ああ、こういうふうに振る舞うんだなというふうに心得ること。

あるいは周りのみんながしていて、自分も見て、ああ、これは素敵だなと思って自分もやる。

そういうことは全部教育に含まれるわけですが、人間の場合にはそういう教育、広い意味での文化的伝承というものがないと、そういう複雑な作法を身に付けることができないわけです。

これを実は我々はジェンダーと呼んでいるわけです。

ここで、ここから先は難しい話になるんですが、人間の場合に、果たしてこういう、アズマヤドリのようなそういう繁殖の作法というもの全くなしに、雄と雌をおりの中へ入れておけば自然に子供ができるというような、そういうものなのかどうか。

それとも、人間はそれこそ高級な動物であるから、もっともっと複雑な形で繁殖の作法というものが必要なのか、どっちなんだろうかということになるわけです。

これは常識で考えれば、こういう、いろんな動物の文化的な振る舞いというものは、高級な動物になればなるほど複雑になっていくわけですね。

そういう意味では、人間がそういう繁殖の作法というものなしに過ごせる、そういう生物だとは思われない。

現に我々自身が200年前、300年前のいろんな文学作品を見てみると、そこにいろんな様々の繁殖の作法の物語があるわけです。

もちろん我々は繁殖の作法の物語なんて言わないで、それを恋愛小説と言ったりするわけですけれども、しかし、生物学の目で眺めてみると、ああ、なるほど人間というのはそれぞれの時代、それぞれの地域によって、いろんな様々の型を作りながらそういう繁殖の作法というものを自分たちで作り上げ、かつ守ってきたんだなということが分かるわけです。

ところが、この男女共同参画社会基本法というものは、まさにそういう人間が本能を持っていないから、その代わり文化的に社会的に教育して作り上げてきたそれを壊そうという、これが一番基本に潜んでいるところなんです。

これは基本法で申し上げますと、第4条のところにかすかに表現されているところなんですが、ちょっとその条文を読んでみますと、こういう条文になっております。

社会における制度又は慣行が男女の社会における活動の選択に対して及ぼす影響をできる限り中立なものとするように配慮されなければならない。

これだけすらっと耳から聞いただけでは何を言おうとしているんだか分かりにくいんですが、例えば今のアズマヤドリに翻訳してみますと、こういうことなんです。

社会における制度又は慣行というのは、例えばアズマヤドリの場合には雄だけが東屋を作り、きれいに飾り立てる。

そういう創造的な文化活動をするということになるわけです。

こういう慣行があって、雌たちはただ専らそれの鑑賞者である。

これはけしからんと。

本当の男女平等ではない。

だから、そういう慣行があろうがなかろうが、男女が社会における活動はそういう昔からの習慣に惑わされず、縛られないようにしなければならない。

つまり、雌もせっせと東屋を作って、せっせとその東屋を飾り立てて、さあ、雄も雌もみんな東屋を作る。

それですばらしいアズマヤドリの文化が花咲くと思うと、はっと気が付くと、あっ、そこに来てそして雄と結婚するその雌がいなくなってしまったということになる。

まさに、それをしようと言っているのがこの男女共同参画社会基本法の第4条ということになるわけです。

これは本当に一番根本的なところで男女が共同参画しなければならない、その生物としての大事な営みをどこかに蹴っぽってしまった、そういう考え方というほかないと思うんです。

実はこの男女共同参画社会基本法というものはいろんな紆余曲折をたどって出来上がっているものだと言っていいと思います。

もちろん、片方にはこの大澤真理さんのように、まさにそういうジェンダーという区別、これを退けるためにこういうものを作った。

これまでのいわゆる男女平等というものは、彼女たちの目からすれば、いわばその男性と女性というそういう区別がある、その生物学的な区別は置いておいて、そして、ただウルトラ生物、スーパー生物としてのその領域の中での男女平等を実現しようという、そういう話であった。

だけれども、自分たちはそのスーパー生物、ウルトラ生物の領域をもう人間の社会のありとあらゆる全領域に押し広げるんだという、こういう考え方を持っていらっしゃる。

まさにその家庭という繁殖の支えである場、それ自体がもうまさにジェンダーの巣窟ということになるわけですから、これももうスーパー生物、ウルトラ生物の観点から、全部ばらばらにしてしまって、人間が究極的には1個1個の個人として生きられるような社会を作らなければいけないということを本当にはっきり、この本の中で言っていらっしゃいます。

そういうラディカルな考え方というものと、それからもう一つ、これまでどうしてもフェミニズムというものは専ら女性の観点から女の権利を広げる、女たちが自分の不満をぶつける、そういう観点からしか運動がなされてこなかった。

でも、それではやはり本当に人間の社会全体を良くするというその目的にはかなわないだろう。

男性と女性がどうやったら本当にうまく人間の社会を運営していくことができるか、そのシステムを考えなければならないという、こういう非常に真っ当な考え方、そういう考え方を背景に持って、この共同参画社会基本法づくりに関与したという人を私は現に知っております。

その中で、どういう熾烈な戦いがあったかどうかは分かりませんが、結果としてここに出来上がった共同参画社会基本法というものは、一方で人間をもう本当に全部スーパー生物、ウルトラ生物としての在り方としてとらえてしまおう。

もう人間が繁殖の作法が必要だ何だ、そんなことはもう全くかまっていられない。

とにかく、このスーパー生物としての文明の発展というものを一直線に進めていかなければいけないという、こういう考え方というものが確かにこの基本法の中には生き残っています。

と同時に、先ほど申し上げたような、いや、人間はやっぱり本当に男性と女性というその二つの性によって成り立っている生物である。

で、そのことは幾ら人間の文明が進んでも大切にしなければならない我々の大切な基本的事実であり、基本的存在の根本であると、そういうことを見つめながらやっていこうという考え方とがもう一緒にこの中に詰め込まれているわけです。

そういう基本法を基に各都道府県で条例を作っていくということは、これはまた大変難しいことなんですね。

残念ながら私が奉職しております埼玉の埼玉県条例というのは、その意味ではもう非常にそのジェンダーを破壊し、人間を単なるウルトラ生物としてとらえるような方向にむしろ基本法を推し進めてしまったような、そんな条例が出来上がってしまいました。

私自身、今、さいたま市の市の条例づくりにかかわっているんですが、これは県条例がびしっと出来上がっていますと、市の条例でこれを真っ当な方向に戻すというのは、これはもう本当に至難の業で、大体25人ぐらいいます審議委員の中の、そういう考えを持った人間は私一人だもんですから、いつも会長さんが、ああ、また長谷川が発言するといった顔で、もう時間がありませんから2分だけなんて言われて苦労しておりますけれども、そういう苦労になってしまうんです。

ですから、本当に県のレベルでしっかりと、人間はやはり男性と女性のある生物である。

そのことを無視したら人類は生き残れない。

しかもジェンダーというのは、本能を失ってしまった、失ってしまったとは言いたくないんです。

本能が大変薄くなってしまった人間においてはとても大事な拠り所である、そういうジェンダーを大事にしていかないと、人間は本当に生物として生き延びることができなくなってしまう。

この観点を忘れない県条例を作るということ、これが非常に大事なことだという気がするんです。

例えばここで、ことに千葉県の場合、皆さんもご承知のとおり、リプロダクティブ・ヘルス(reproductive health)、本当に舌をかみそうですが、リプロダクティブ・ライツ(reproductive rights)という、こういう二つの観点が問題の一つの争点になっております。

この争点を、細かく条文をどうしろこうしろというようなアドバイスを申し上げるんではないですが、この問題について、今申し上げたような観点からどう考えたらいいんだろうかということを、ちょっと、まあ、いわば応用問題として申し上げてみたいと思うんですが、こういうことだと思うんです。

このリプロダクティブ(reproductive)、再生産とこれを漢語で訳してしまいますと、何か工場で人間が生産されてくるみたいで変な感じがしますが、要するに今申し上げた、人間も生物である以上、子供を産み育て、またその子供が自分の子供を産み育てるというそのサイクルがなければ人類が滅びてしまうというその問題が一言リプロダクティブというその言葉に表されていると言っていいわけです。

それについて、そのヘルスを問題にすると。

これはどういうことかと言えば、本当に人間はただ生き延びていくためにも健康でなければならないわけですけれども、そういう更に自分の次の世代の生命を産み育てるという、このことのためには本当にピッカピカの健康が必要です。

私自身二人子供を産んだときのことを思い出してみますと、ああ、若かったからできるんだなという感じがいたします。

もう9か月ぐらいになると、本当にこんなになって、お相撲さんみたいな格好をしてよたよた歩いているんですが、実際もうそうなると、自分の内臓なんて本当に体のどこにあるのかなという感じなんですね。

もう体中がもう一人の生命を支える道具になったような格好で歩き回っているんですが、しかし、それでも恐ろしいもので、若いときにはそれで何とも思わず、普通に仕事をして、歩ける。

もちろん走ったりなんかはできませんけれども、それでやっていけるんです。

ですけれども、これはたまたま私が本当に、たまたま健康に恵まれていたからということで、これは例えば今の若い女性がダイエットに走って、もう若いうちから歯がぼろぼろになって骨がやせ細るという、そういうことがいろんなところで心配されております。

若い女性が自分のスタイルだけを考えて、本当のリプロダクティブ・ヘルスを考えずに、食事を制限してやせ細っていたら、次の世代はきちんと生まれてこない。

そういう意味で、若い人たちに、あなた達の健康は自分たちだけのものじゃないんですよ。

これからもう一つの生命を育てる大事な体なんだから。

昔はそういうことは常識だったんですけれども、今は改めてリプロダクティブ・ヘルスが大事だという、これを声を大にして言わないと、若い人たち、いろんなことでこの文明の中で自分の体を損なっている。

そこをきちんとしなければいけない。

そういう意味では、このリプロダクティブ・ヘルスという問題は非常に大事な問題なわけです。

まさに男女共同参画社会基本法として、これは大事な問題としてとらえている。

ところが、問題はリプロダクティブ・ライツの方なんですね。

これはどういうことなのかと言いますと、つまり、確かに一見すると、女性がそうやって大きなお腹をしてよたよた歩く。

これは確かにその人間本人にとってみれば、その限りでは大変つらい、うっとうしいも言えるわけです。

それをもう、もちろん、これまで母親になる女性たちはうれしさというその1字で乗り切ってきたわけですけれども、これをふっと考えてみると、あっ、女性は損じゃないかということにもなるわけです。

こういう、もう、とにかく幾ら男女平等が進んでも、何か月も大きいお腹を抱えてうっとうしい思いをしなければならないのは、これはやはり幾ら医術が進んでも、まあ、あと何十年かは女性の役割であろう。

となると、では女性にはそれに対してノーという権利があるんだという、これがリプロダクティブ・ライツの考え方なんですね。

これはもちろんフェミニストの人たちはこんな言い方はいたしません。

例えば昔、もう次から次へと、毎年絶え間なく子供を産んで、もう歯もぼろぼろになり、健康もぼろぼろになる。

そんなふうな女性の虐げ方はやめましょうということでリプロダクティブ・ライツ、ヘルスという問題があるんだなんて申します。

ですけれども、今の日本に、はっきり言ってそんな状況はありません。

今の日本にあるのは、自分がもう少し仕事を続けたいから、足手まといになる妊娠、出産ということは避けたいという、そういう女性の、はっきり「わがまま」と言わせていただきますけれども、それをどこまで許容するかという、そういう話になってくるわけです。

ここで本当に難しいのは、つまり、そういう、今、私は女性のわがままと言いましたが、そういうわがままというものが例えば200年前ぐらいの女性を考えてみて、あったろうか。

恐らく、もう子供を授かるというそのことの有り難さということを中心に考えていただろうという気がいたします。

この100年間、20世紀の1世紀の間に、我々は既に本当にジェンダー的な文化というものを失っております。

そういう人間の在り方を中心に考えてみると、ああ、じゃあ女性が子育て、出産を嫌がるのは当然だという、そんな考えが出てきてしまう。

このリプロダクティブ・ライツという考え方は、言ってみれば、もう既にそういう人間が次の世代を次々に継いでいかなければ死に絶える生物だということから、みんなの視線が完全にそれてしまっている、そういう中で生まれ出てきているのがこのリプロダクティブ・ライツという考え方だと言っていいような気がするんです。

ですから、これをもし前面に掲げるとすると、これはもう、これまで日本のどの都道府県でできたよりも、なお一層、この共同参画社会基本法の危険な側面を強調したものになるということが言えると思います。

それについて、実際にこちらの自民党でどういう案をお作りになるか、それはまだこれからの話だと思いますけれども、これに関しては私は絶対に妥協をしないでいただきたいという気がしております。

えてして、今回の共同参画社会基本法の問題に関しては、こういう正論を言う立場というのはいつでも受け身の立場といいますか、何かこの共同参画社会基本法が改革を掲げて、未来に向けての新しい方向を打ち出そうとするのに、いわゆる抵抗勢力としての、後ろを振り向いて、スカートの裾を踏んづけているとか、そういうイメージでとらえられることが多いんです。

もちろん、今申し上げたように、20世紀というこの過去100年間の流れを振り返ってみると、確かに今私がここで主張しようとしているようなことは、その流れのそのスカートを踏んづけようとしていると形容してもらってもかまわないと思います。

ですけれども、振り返ってみると、この21世紀というものは、果たして過去の20世紀の「行け行け、どんどん」、人間というものはもうほとんど生物ですらないんだ。

どんどんクローン人間を作って、そして人工栄養でどんどん人工的な人口、人工的な人口を増やすというのも変な言い方ですが、それで世界を制覇していけばいいんだという、その考えの延長で突っ走っていいものかどうか。

むしろ私は21世紀の入り口に立ったときの、もうこれは日本人のみならず、世界中の人間の反省というものが、20世紀というのはちょっと前を向いて走りすぎた。

もう1回、我々が生物であり、この地球上の中で、地球の恵みを受けて育っている、そういう存在なんだということをしっかり見直さなくては駄目じゃないかという、これが私はむしろ21世紀の入り口に立っての、世界中の人間の反省だったような気がするんです。

ところが不思議なことに、こういうことを言うのがまた何かエコロジストとか、何か片仮名の人達なんですね。

振り返ってみれば、我々が日本人としての真っ当な在り方を考えるというのは、実はまさに今申し上げたような、20世紀というのはちょっとやりすぎだった。

もう1回自分たちの足元を振り返ってみようという、そういう姿勢をそのまま素直に自分たちの生き方にすることが我々の日本人らしい生き方でもあると、そういうことが言えるんじゃないかという気がするんです。

そういう意味では、この男女共同参画社会基本法は21世紀に向けてということを言っているんですが、実は発想は完全に20世紀の発想なんですね。

もう20世紀の発想をそのまま押し詰めて、人間はどんどんクローン人間を作って、そして雄だ雌だ、そういうセックスの区別さえも、これも実は本当にあやふやなものなんだということをフェミニストたちの学者先生たちは言い出しております。

確かにそうかもしれません。

生物というものが有性生殖を営むようになってきたという、これも地球の歴史全体から考えたらごく最近の、その、非常に繊細な生物の営みのてっぺんにあることなんですね。

ですから、それが揺らぎを持っているのは当然のことなんです。

ですけれども、我々はそういう生物として有性生殖を営むに至った、これはもう大変なことなんです。

人間が生物に戻れなんていうと、何かよほど、もう原始人の暮らしに戻れと言っている話だというふうにお考えになるかもしれませんが、実は人間が生物であるということは、この地球上の存在とすると、大変な特権階級であるということなんですね。

ただ、その特権階級であるということにはいろんな制約が付きまとうし、個人個人としては煩わしいな、うっとうしいなと思う、そういうこともたくさん付きまとっています。

ですけれども、その個人的な煩わしさ、うっとうしさというものをそれをまるごと引き受けて、初めてこの複雑な人間という生物の繁殖、存続が成り立っているわけです。

そのことをもう一度振り返っただけで、この共同参画社会基本法の一体どこがおかしくて、どこがおかしくないか、それを見極めることはかなり簡単ではないかという気がいたします。

そういう意味から、この千葉の県条例というものは、是非、これが本当の男女共同参画社会基本法なんだという、そういうモデルを作り上げていただきたい。

そのモデルはどういうものかというと、実はジェンダーというものは、本当に我々、こうウルトラ生物でありながらかつ生物でもあるという、複雑な人間の在り方がバランスを取って何とか存続していく、その何というか、綱渡りするときに長い棒を持ちますね。

あのバランス棒のようなものなんだと、そう心得ていただくと一番いいんじゃないかという気がするんです。

綱渡りする人があんなに長い棒を持っていて、何で、邪魔なんじゃないかと、私は昔思っていたんですよね。

そうしたら、そうではなくて、危うい綱渡りのバランスであるからこそ、あの長い棒をつかむことで、あの細い綱の上を歩いていくことが簡単になる。

で、人間が社会的、文化的に作り上げたジェンダーというのはまさにそういうものではないかという気がするんです。

これを単なるうっとうしさ、束縛としてはねのけていったらどういうことが起こるか。

人類全体が綱から落っこってしまうことになるというふうに私は危ぐしております。

是非、この千葉県では自信を持って、本当の男女共同参画基本条例を作っていただきたい。

そこではジェンダーというものを胸を張って大事にするという、そういう観点を取り入れていただきたいと思っております。

どうもご静聴ありがとうございました。

(拍手)

【司会・谷田川 元 委員長】

長谷川先生、ありがとうございました。

このあとの日程についてご案内いたします。

これから五、六分休憩を取りまして、午後2時から再開させていただきたいと思います。

そして高橋史朗先生に約1時間ご講演をいただきまして、そのあと残り30分で質疑応答という形を取りたいと思います。

それでは、今から休憩を取りますので、どうぞトイレ等、行っていただきたいと思います。

*****(休憩)*****

【司会・谷田川 元 委員長】

それでは引き続きまして、高橋史朗先生からご講演を頂きたいと思います。

私の方から高橋先生をご紹介させていただきます。

高橋先生は現在、明星大学の教授であられます。

早稲田大学大学院、文学研究科、教育学専攻を修了後、スタンフォード大学、フーバン研究所客員研究員として活躍されました。

政府の臨時教育審議会専門委員、あるいは旧自治省の青少年健全育成研究会座長としてご活躍されました。

専門分野は教育学で、特に感性教育、登校拒否、性教育について深い興味を抱いていらっしゃいます。

現在は「新しい歴史教科書をつくる会」の副会長としてもご活躍であられます。

それでは、高橋史朗明星大学教授からご講演を頂戴したいと思います。

(拍手)

【高橋 史朗 明星大学教授】

皆さん、こんにちは。

私も長谷川先生と同じように大澤真理さんが来るということで、皆さんと同じように、巌流島の決闘になるんではないかと(会場・笑)期待をしていた一人でございますが、今、懇々とお話をされる先生の横で、こういうことを原点に立ち返って静かに深く考えるということがやっぱり大事だということを改めて思いました。

世の中は21世紀、成熟社会に向かっているはずなんですが、なかなか、この男女共同参画を巡る議論は成熟していないというのが現実ですね。

そもそもジェンダーとは何なのか、あるいは今日、リプロダクティブ・ヘルス、ライツという、そういう根本についての問題提起を頂きましたが、私は常々、21世紀は「共創社会」、共創は共に創るという。

これは男女共同参画とは一体何なのか、男女平等とは一体何なのか、あるいは性教育、人権教育とはそもそも一体何なのかという、先ほど抵抗勢力というお話がございましたけれども、私たちはそれに反対しているんではなくて、本当の男女共同参画とはどういう社会なのか、本当の男女平等とはどういう平等なのか、あるいは本当の性教育、本当の人権教育とはどういう教育なのかということを考えているわけでありまして、決して抵抗勢力ではないんですね。

で、「共創」ということを、私は随分、もう今から8年ぐらい前に中学校長会でお話をしたことがあるんですが、「競争」という競うほうは自己優先の価値観です。

おれがおれがという価値観ですね。

で、最近よく言われる「共生」という、共に生きるという、こっちは自他容認、あなたも私も容認しましょう。

「共創」というのは自他補完ですね。

自分と他の違いを生かしていこうと。

つまり違いというものが豊かさなんだという発想です。

ところが多様性とか多様な家族ということを盛んにおっしゃるんですが、なぜ男と女の違いということを真正面から受け止めようとしないのか、そこに私は疑問があるんですね。

よく学生たちに単層林と雑木林はどっちが安定的で創造的かという話をします。

それは明らかに雑木林です。

それは違いがあるからです。

違いがあることが安定的で創造的であって、つまり男女共同参画社会というのは、男女の違いというもの、特性というものを生かし合いながら、男女が補い合うという、それが共創社会、共に創る社会ですね。

だから本来、男女共同参画社会は共創社会、男女が共に創っていくという社会であるべきなんですけれども、今日、私が申し上げたいのは、千葉県で今進んでいる男女共同参画推進条例の5つの問題点ということについて、私はお話をしたいと思います。

第1は、第1の論点は、男女共同参画とは何かということにかかわることであります。

で、これはあとで申し上げます。

まず先に、先ほど長谷川先生のお話を聞いた感想を少し申し上げておきたいんですけれども。

2点目は、これも今日の私の話の中で最も大事なことになってくる先ほどのリプロダクティブ・ヘルスとライツという、このことにかかわることでございますが、そのライツという権利のほうは非常に危険な側面を持っているということをお話をされましたが、今日、お集まりの方の中にはどこが危険なのかというのがまだピンと来ていない方がいらっしゃるんではないかと思うんですね。

私は教育の観点からこの問題を具体的にあとでじっくりと考えたいと思うんですけれども、まず冒頭に「ヘルス」という言葉は、もともと実は全体というギリシャ語「ホロス」という語源から来ておりまして、そこからホリスティック、包括的なという派生語が生まれまして、健康の元になっているのはヒールという、いやすという言葉なんですね。

で、そのいやすというのがヒールですけども、その心も体もいやされている状態、これが健康。

したがって、健康は心と体、両方の健康を含んでいるものであります。

そこでWHOはその健康の概念について、そういうそのスピリット、精神的なものですね、そういうものを含める議論をかなり行いまして、心の健康教育プログラムというのを1994年に作っております。

つまり健康教育というのは、単に体の健康だけではなくて心の健康、それをどうするかということを含んでいるわけです。

で、具体的にはEQというのは、皆さん、聞いたことがあると思うんですけども、IQに対してEQ。

これは三つの要素を含んでおりまして、自分が自分をどう見るか、心内知性と言います。

セルフコンセプト。

もう一つは人間関係知性、対人関係をどうやってうまくやっていくかという知性ですね。

三つ目が状況判断知性。

僕はこれを総合的な人間力と言っているんですが、そういうものをどう育てるかということが実は健康教育の大事な課題なんですね。

ところが、あとで私は詳しく申し上げますけれども、この千葉県の条例案の中にある第17条の生涯にわたる女性の健康支援等という所を見ますと、性の自己決定権という観点で性教育の充実、促進をということが書いてございますが、それはある意味で、性の自己決定権という人権教育の視点で性教育をとらえている。

で、その性教育というのも人間教育という、そして健康教育という、そういうまさにホリスティックな、先ほど長谷川先生はバランス棒ということをおっしゃいました。

で、私はいつも学生たちに「紅白梅図」という尾形光琳の、紅梅と白梅があって、その真ん中に広い川が流れている、あの絵を見せまして、男と女、父性と母性、指導と支援、まあ、ありとあらゆることが言えるわけですけれども、一見対立的に見えるものをどうやってバランスを取っていくのか、これが大事な21世紀が求めている知恵であります。

で、ジェンダーということについて、そういう、いわばこの男女共同参画社会基本法は豊かで活力ある社会を実現するということを書いておりまして、実はジェンダーというものはそういう豊かで活力ある社会を実現する源泉にほかならない。

それは人類の文化的遺産であって、人類の知恵の結晶である。

そういう積極的な意義というものをしっかりと見る必要があるわけでありまして、どうもジェンダーフリーというふうに、男女共同参画を誤解している人たちがかなりいらっしゃいまして、その方たちはジェンダーを女性を抑圧するもの、抑圧システムとしてとらえていて、マイナス的にとらえている。

私はマイナス思考と言っておりますが、教育を変えるということはこのマイナス思考から転換していくことなんですけれども、その意味でジェンダーをどうとらえるかという、まさに原点に立ち返って考えてみる必要があるということを感じました。

それから、ついでに、実はそのリプロダクティブという言葉からすぐ思い付くのが「ラブアンドボディ」という。

これはこのあいだ、コーラーのお茶を飲んでもラブアンドボディと書いてありましたね。

この、皆さん見たことありますか。

まあ、関係ないのかなと思う人もいるかもしれませんが、ラブアンドボディブックと。

何でこれにラブアンドボディという名前が付いているんだろうと。

普通は分からないんですね。

しかし、これはリプロダクティブ、つまり再生産しない愛情とボディというものが大事だと。

お分かりになりますね。

その思想が根本にあります。

で、このことはあとで詳しく申し上げますけれども、実は男女平等とか男女共同参画という言葉は非常に美しいんですけれども、その言葉の隠れみのとして、実はそこの奥に潜んでいる狙いというものがある。

そこをしっかり見据えた上で、本当の男女共同参画社会、本当の男女平等とは何かという、そういう条例を作ることが大事でございます。

そのことを感じましたことと、もう1点は、実は11月の上旬でしたか、都庁の中で、ヒューマン・アニマル・ボンド学会というのがありまして、私と順天堂大学の名誉教授の脳科学の草分けの新井という方が基調講演を二人でやったんですが、その方と舞台裏で、控室で文部科学省委嘱事業の子育て支援の木、問題になりましたあのパンフレットについて、お話がたまたま雑談の中で出たわけです。

で、それを見て、その脳科学の専門家は何と言ったかといいますと、これは我々脳科学の人間から言わせれば、ジェンダーフリーなんていうのは噴飯ものだと。

で、つまり、どういう意味で言ったかといいますと、生まれたときはジェンダーフリーとか、生まれたての赤ん坊は男らしさ、女らしさなんていうものはないと。

そんなことはとんでもないことだと。

彼は幼児の自由画、幼児に自由に絵を書かせる自由画ですね、そこには厳然と男女差があるということから話を始めまして、実は胎児期のアンドロゲンという男性ホルモンの働きによってそれは決まってくるんだと。

で、こういう実験の話をその学会の冒頭の基調講演で致しました。

妊娠中のアロゲザルにアンドロゲンという男性ホルモンを注射しますと、生まれた雌ザルの遊びパターンが雄型になると。

例えば子育て支援のパンフレット、その中では、これですね、これが文部科学省支援事業の未来を育てる基本の木、新子育て支援のパンフレットでございます。

これは国会でも取り上げられたわけですけれども、そこで主に問題になったのはこの4ページで、例えば女の子にピンク色の産着、男の子に水色の産着を出産祝いとして贈っていないかと。

それはあとから固定観念を押し付けているもんだと、こういうわけですが、男の子が水色を求め、女の子が暖色系を求めるのはこれはホルモンの関係なんだと。

その、あとから社会的文化的に押し付けられて、そういうふうになるんだったんじゃないんだということをその方はおっしゃるわけですね。

あるいは、モチーフ、構図、それから様々な例を持って、その脳の発達の差から来ている男女差というものについて話を具体的にされたわけです。

で、是非、私はその脳科学の女性のお医者さんに来ていただいて、この問題は是非、女性同士で大いに議論してもらってもいいんじゃないかと、そんな思いをそのときにしたわけであります。

さて、今日は1時間でございますので、余りいろんなお話をする時間がございませんので、今から本論に入ります。

今日、私は千葉県で準備されている男女共同参画推進条例案の五つの問題点について問題提起をすると申し上げました。

まず第1点目は前文の問題点であります。

前文にはこうございます。

男女共同参画は既に世界の大きな流れであり、国連における国際的合意に基づくものであると。

で、この場合の男女共同参画がどういう意味であるかという、その中身が問題であって、中身次第では世界の大きな流れでもないし、国連における国際的合意に基づくものでもないわけでありますが、今日、本当は出席されるはずであった大澤真理さんの表現によれば、この男女共同参画というものは男女共同参画審議会答申の男女共同参画ビジョンという所ではジェンダーイコーリティ、男女平等を超えて、ジェンダーそのものの解消、ジェンダーからの解放、すなわちこれがジェンダーフリーですが、それを志向すると、こう言っておられる。

そして上野千鶴子さんとの対談の中では、ジェンダーそのものの解消を目指すことを議論し尽くした上ではっきり決めたと、こう言っておられる。

つまりジェンダーそのものを解消する。

つまりジェンダーフリーというものが男女共同参画の意味であるとすれば、それは決して世界の大きな流れではないし、国連における国際的合意に基づくものでもないのであります。

つまりジェンダーというものを女性を抑圧するものとして、つまり抑圧システムとしてマイナス的にとらえていると。

では、男女共同参画社会基本法はどうかといいますと、男女共同参画基本法の場合には、これはまあ、いろいろと解釈が分かれるかもしれませんが、憲法とか現行法との整合性というものを図って、決してジェンダーフリーではないと私は思っております。

そこには先ほど申し上げたように豊かで活力ある社会を実現するという目的が明記されていると私は考えます。

で、その豊かで活力ある社会というものは、先ほども申し上げたように男女の特性を認め合って、生かし合って、補い合うという、私のいう共創、共に創るあるいは「共活」、これも以前、共に違いを活かし合うという意味で共活と全国校長会で申し上げたことがあるんですが、脅しと間違えられましてですね、21世紀は脅しだという大変な誤解を受けたんですが、そうではございません。

共に違いを活かし合う。

男と女の違い、様々な違いを活かし合うという。

そして共に新しい秩序を作っていく。

これが本来の男女共同参画社会であるはずなんであります。

ところがジェンダーフリーというのは、ジェンダーそのものを解消しようと。

そのことがいかに危険なものであるかということは、今、先ほどのお話でお分かりになっただろうと思うんですが、この千葉県には既に教育長から各県立高校長、盲・ろう・養護学校長にジェンダーフリーに関する通知が出ているわけであります。

例えばこういう通知でありますね。

1番から3番までございまして、1.積極的にジェンダーフリー教育を推進する。

教科、特別活動、総合的な学習の時間をはじめ、教育活動全体の中で積極的に推進すること。

2番、学校生活をジェンダーフリーな環境に整える。

特に出席簿等の男女別名簿を見直し、男女混合名簿の積極的な導入を図ること。

3番、ジェンダーフリーに関する研修を実施し、教職員、生徒等の意識の改革を図ることと。

この研修を実施して教職員と生徒の意識改革ということまではっきり言っているわけですね。

具体的に見ましょう。

我孫子の例をある方から送ってきていただいたんですけれども、我孫子の男女共同参画プランというのがございますね。

我孫子市、見ておりましたら一番最後のページにカルタのようなものがありまして、「や」というのが、上は「や」、柔らかな心に刻むジェンダーフリー(会場・笑)。

柔らかな心にジェンダーフリー。

私はまあ、感性を育てるという教育を研究しておりますが、ジェンダーフリーを柔らかな心に吹き込んでもらっちゃあ困るなと思うんですね。

もっと柔らかな感性を育ててもらいたいと思うんですが、これも我孫子市教育委員会が出した男女平等教育教師用資料ですね。

開いてみますと、なぜ今ジェンダーフリー教育かと。

もうジェンダーフリー教育は自明の前提であります。

そしてジェンダーフリーという言葉の説明も書いてあります。

ここには和製英語とちゃんと書いてありますが、ジェンダーフリーというのはアメリカでは通用いたしません。

あくまで日本でバリアフリーをヒントに作られた和製英語にほかならないんですね。

さらに、クラスのジェンダーフリー度はどうかとか、あなたのクラスはジェンダーフリーかとか、チェックするものがずっとありまして、同じく教師用資料ですけれども、ジェンダーフリー教育の第1歩は教師自身の意識改革ということで、先生方の意識をジェンダーフリー教育にどんどん向けていく。

もう、こういうことが現実に進行しているわけであります。

これはもう議論の段階ではなくて、もう既に進んでいるわけでありますね。

そしてジェンダーチェック、こういうものがあって、小学年、高学年用、あるいは低学年用、そして保護者の皆様へという親に向けての文章もあります。

そして、男らしさとか女らしさにとらわれていないか、自分らしさを大切にすることの重要性を親子で話し合ってみようと。

いつも言うのは、男らしさ、女らしさでなくて、自分らしさをと、こう言うんです。

一見これも正しいように見える。

でも、男らしさと女らしさの上に自分らしさが加わるんで、これがバランスであって、自分らしさが男らしさ、女らしさと両極で対立しているんではないんですね。

そういう、見方が非常に二極対立的にとらえているというところが問題であります。

さて、今のが少し具体的な事例を御紹介をしたわけでありますが、第2番目に参りましょうか。

第2番目の論点でございますが、第2番目の論点は、第2条、第2条に条例案の中では定義がうたってございまして、その定義の中にこういう一文がございます。

男女が均等に、途中を省略しますが、様々な利益を享受することができ、という文章がございます。

これは結果の平等というものをうたっているものであります。

で、この文案に対しては利益を享受する機会が確保されるというふうに改めるべきだと私は考えますが。

つまり男女共同参画社会は結果の平等を求めるのか、機会の均等を求めるのかという論点であります。

例えば分かりやすい例で申し上げますと、埼玉県で、埼玉県は長谷川先生の大学がある所でございますが、男女共学にしなさいという勧告書が出ました。

これは昨年の3月28日に出たわけでありますが、1日も早く県立高校をすべて男女共学にすることを望むと、こういう申入れがありまして、それを受けて苦情処理機関が男女別学校の共学化を早急に実現する必要があるという勧告書を出しましたね。

で、中身が問題です。

なぜこういう考え方をしたかということをずっと見ていきますと、まず第1条、基本的な考え方に女子差別の撤廃条約の引用がございまして、性に基づく区別、排除又は制限とあり、女子に対する差別とは性による区別も差別であると定義付けられていますと。

つまり、男女を区別することが差別だということがこの勧告書の基本的な考え方になっておりまして、そこでチェックするのは各学校の教育目標なんですね。

男子校の教育目標の中に質実剛健というのがある。

文武両道というのがある。

女子高には、正しく美しい社会の創造とか、調和的で情操豊かとか、礼儀を重んずるとか、思いやりのある人間とか、こういうものが差別につながるというわけであります。

ちなみに、これは富山でしたかね、コウヨウ小学校というところが校歌がやはり問題になりまして、父親のような立山連峰、母親のような何でしたかね、神通川でしたかね、その父のような、母のようなというところが差別につながると。

そういうふうに校歌というものをいちいち、その男らしさ、女らしさにつながる、固定観念につながるというところでチェックをしていきますと、恐らくこの千葉県の伝統のある学校の校歌はかなり問題になるのではないかと思うんですね。

果たしてそのことが目指すべき21世紀の教育になるのであろうかと私は大変疑問に思いますし、そして最終的には速やかに共学にしなさいということを勧告しているんですが、これは結果の平等を求めているわけです。

教育基本法はどう言っているか。

教育上、男女共学は認められなければならないと言っている。

これは機会均等を言っているわけですね。

あるいは女子差別撤廃条約の中でも、私が以前、なぜ高校は家庭科が男女共修になったのかという経過を調べましたら、女子差別撤廃条約を批准したことが大きなきっかけになっているということが分かりました。

ところがその女子差別撤廃条約の原文を見ていると、同じカリキュラム、同じ試験というものへのアクセスというものは保障されねばならないという趣旨のことが書いてある。

これは希望すれば同じものが受けられるという、教育の機会均等のことを言っているはずなんですね。

ところが、男子も女子も同じカリキュラムを受けなければならないという結果の平等のように解釈してしまう。

ここに大きな誤りがあるわけであります。

つまり、結果の平等ではなくて機会の均等を求めているものである。

で、このことは11月12日、昨年の参議院の委員会で、既に政府側の答弁の中でそのことが認められておりますので、しかも、それが12月4日に内閣の府の男女共同参画局から全国に通知が出ております。

その中で福田官房長官は男らしさ・女らしさを否定しているのではないということを明言しておりますし、それから坂東眞理子内閣府男女共同参画局長は、これは大事な文章ですので、まあ、今日お集まりの方は多くの方が読まれたかもしれませんが、あえて大事ですので確認させていただきますとこういう答弁をしました。

ジェンダーフリーとの関係でありますが、ジェンダーフリーという用語はアメリカでも使われていないし、北京宣言及び行動綱領や最近の国連婦人の地位委員会の年次会合の報告書などでも使われていない。

つまり国際的合意を得ていないということです。

もちろん、日本の男女共同参画社会基本法、男女共同参画基本計画等の法令においても使用していない。

一部に誤解があるが、男女共同参画社会は男性と女性の区別をなくす、画一的に男性と女性の違いを一切排除しようという意味でのジェンダーフリーを目指しているのではないと、こう明言をしている。

にもかかわらず、既に千葉県ではこのジェンダーフリーが教育長通知としてもう教育界で一人歩きをしている。

この現実をどうするのかということがまずあるのに、更にこれに拍車を掛けるような条例をもう一つ作るとすれば、これは更に大きな問題になるわけであります。

ジェンダーフリーを目指していないという、それは一部の誤解だと、こういうふうに言っている。

この点を明確に確認をしておきたいわけであります。

例えば誤解している例に福岡市、千葉県以外のことを申し上げるとちょっと時間がなくなりますが、福岡市が出している男女平等教育の副読本を見ますと、指導の手引ですが、こう書いてあります。

男女平等とは女性があらゆる分野で結果の平等を実現すべきことを意味しますと。

こういうようなことが全国各地で、実はもう誤解の下に、男女平等イコールジェンダーフリーという、そういう誤解が広がって、そしてジェンダーフリーということが持っている危険性というものが意識されないまま、どんどん、どんどん広がっている。

この現実をきちっと直視しなければならないわけであります。

次に第3条、3番目の論点に移りたいと思いますね。

条例案の3番目の問題点は、今、もう申し上げたことにつながるんですが、第3条にかかわることでございます。

第3条の基本理念というものにおいて、男らしさとか女らしさというものを否定しないということを明確にすることが大事であります。

それは先ほどの福田官房長官の答弁にもございましたし、さらに、これが今、私が持っているのは12月4日に出ました内閣府男女共同参画局から都道府県政令指定都市、男女共同参画担当課に送られた通知であります。

国会の審議について。

ところがこの中には大事なポイントが抜けているんですね。

それを私は今日、皆さんに何が欠けているかということをお話をしておきたいんですね。

それは、まずこういうことを、これは7月22日、昨年の7月22日の衆議院決算行政監視委員会において、山谷さんが質問をし政府側が答弁した中で、福田官房長官が、結論だけ要約して申し上げますとこういう答弁をしているんですね。

福田官房長官、行き過ぎた解釈というものはすべきではないと。

我が国の伝統的な家族とか男女関係も含めまして、・・・・とあるんですが、価値のあることであるし、今後もそのことに重きを置いていく考え方は厳然としてあると。

つまり我が国の伝統的な男女関係ということは我々が大事にしてきた男らしさ、女らしさという日本の文化的な形ですね。

それは価値のあることであって、今後も重きを置いていくんだということをはっきり言っているわけです。

そして、家庭制度とか家族制度とか、日本には日本古来の伝統もある。

守るべきものは守っていく。

行き過ぎた考え方というものは取りたくないと、こういうふうに言っているわけですね。

ところが、どうもこのことがここには抜けている。

もう一つ大事なことがあるんですね。

それはこのリプロダクティブ・ヘルス、ライツ。

特にライツにかかわることでありますが、これも同じ7月22日に胎児の生命権を巡る質疑があるんですね。

で、これは産む産まないを決めるのは女性の自己決定権だという考え方に対して、じゃあ、胎児の生命権との関係はどうなるのかということを質問をしているわけであります。

で、その胎児の生命権について、山谷さんは児童の権利条約も児童の権利宣言も胎児の生命権というものを認めている。

その根拠は児童というものは一体何歳から何歳まで含むか、つまり児童の定義の中に「出生前後」という言葉がある。

出生前後ということは胎児も出生前、つまり胎児の人権ということも児童の人権、児童の権利の中に含まれると、そういうふうに解釈しますが、それで胎児の生命権を政府は認めているということですねということを念を押しているわけです。

それに対して福田官房長官は児童の権利条約の趣旨も全く同じことだというかたちで、事実上これを認めているわけですね。

そして同じ質問を坂東参画局長にしているんですが、坂東さんはこういう答弁をしているんですね。

男女共同参画審議会の答申におきましても、リプロダクティブ・ヘルスについては生涯を通じた女性の健康ということで大事だという合意はされているけれども、ライツについてはいろいろな意見があるというふうな記述になっております。

国際的な場でもリプロダクティブ・ライツについてはいろいろな議論が行われていることは指摘のとおりだと。

つまり、この自己決定権、産む産まないは、決めるのは女性の自己決定権だということを巡ってはこの国連の舞台でも国際的な議論でも真っ二つに分かれているわけです。

それはアメリカ、イスラムあるいはバチカン、そういう宗教的な背景を持った国々とEU、リオグループ、そういうグループがその胎児の命というものをどう考えるかという。

私はいつも、まあ簡略的に申し上げれば、産む産まないを決めるのは、処分する権利は親に、女性にあるんだというのは、胎児は親の所有物だという。

簡単に言えばですね。

胎児の命は親の所有物だから処分する権利はあるんだという理屈です。

しかし、アメリカを初めとしてイスラム諸国等はそうではないと。

それは神様からの授かりものと。

そういう、この命をどうとらえるかということで議論が真っ二つに分かれているわけですね。

ましてや、このことを性教育にどう持ち込むかということについては、これを性教育で性的自己決定権を強調するということは望ましくないというのが実は最も新しい議論の大勢なんです。

そのことをあとで申し上げますけれども、まず胎児の生命権、つまり中絶する権利と胎児の側の権利と、これがぶつかるわけですね。

で、そのことをどう考えるかということは大変長い長い論争があるわけで、アメリカの中にも様々な立場があるし、世界で議論を呼んでいるわけであります。

で、それをこの第17条では、千葉県の推進条例の17条ではこう書いてございます。

一部読み上げますと、性及び子を産み育てることについて、理解を深め、自らの意思で決定することができるよう性教育の充実及び促進うんぬんと。

このように条例の中に性教育まで盛り込んでいる、性的自己決定権に基づく性教育を盛り込んでいる例はないと思うんですね。

で、性的自己決定権というのは、いわゆる性的自立といわれて、これはある意味で人権教育です。

性教育を人権教育の立場で考えているんですが、私は今日、ホリスティックという言葉をキーワードとして冒頭に申し上げました。

それは今21世紀が求めている教育というものは大きなパラダイム転換が求められているんです。

例えば人権教育とは本来どうあるべきか、あるいは平和教育はどうあるべきか、歴史教育はどうあるべきか、ことごとくすべてでありますが、例えば本当の人権教育とはどういうことか、真の人権教育とは何か、これを、昨年3月15日の閣議決定で「人権教育・啓発に関する基本計画」というのが出ておりますね。

これが政府レベルで出ております。

それから大阪府はこういう「大阪府人権施策推進基本方針」というのを昨年出しまして、平成13年ですか、出しまして、そこに、人権基礎教育というのが大事だという新しい考え方を打ち出したんです。

つまり法の論理だけの人権教育ではなくて、まあ、正確に読み上げたほうが分かりやすいと思いますので読みますと、人権基礎教育とはどういう考え方かといいますと、「幼少期から命の尊さや人の人たる道(人間として基本的に守らなければならないルール)に気付かせ、豊かな情操や思いやりをはぐくみ、お互いを大切にする態度と人格の育成を目指す人権基礎教育」、これをベースに置いて人権教育を考えようと。

このことが性教育にも同じことが求められるんです。

性的自己決定権という法の論理の人権教育だけでは性教育、性というのは生きる心、性はもともと生きる心ですね。

ユングは性は天国から地獄まで含んでいると言いましたが、それはまさに心というものをどう育てるか、心の健康教育プログラムと申し上げましたけれども、まさに性教育という場合も命とか心とか、単に性を科学的にオープンに教えれば性が分かるという、そんな単純なものではございません。

性というものは非常に奥が深いものであるし、そして、そういう人権基礎教育と同じような発想で、性教育についてもその命や心というものをはぐくむ、これは政府の閣議決定のものには、まあ、こういう短いものですので、皆さんも多分インターネットで引き出すことができるんじゃないかと思いますけれども、「人権教育・啓発に関する基本計画」、人権とは、人間の尊厳に基づいて各人が持っている固有の権利であり、理性及び感性の両面から理解を深めるということを強調しているんですね。

その理性とか感性というこのバランスが大事だよと。

そして、権利の行使に伴う責任を自覚するという、そういうことも大事だということがちゃんと書いてある。

つまり人権教育というものを、私がよく例に出すのは明倫中学校の児玉有平君の例でございますね。

僕らはこういうふうにやったやったというふうに率直に自白した子たちが、加害者にも人権があるんだということを弁護士から言われて、その前言を一気に翻して、14歳だから罪に問われないんだよなと言い出した。

人権があるということを教えれば教えるほど、一体何が教育なのか分からなくなってきたと。

まあ、そんなお手紙を、親から二十何枚の手紙をもらったということを申し上げました。

それは法の論理だけで人権教育が説かれる場合には人格は育たないわけです。

その人格を形成するという、その感性とかモラルというものをベースにして法の論理、やはりそこにもモラルと法という、そういうバランスが必要でありまして、性教育の場合も単に性の自己決定権という、その自立というのも、これは自立は立つほうの自立でありますね。

ところが今、とんでもない誤解がこの千葉県でも、松戸市でフリーセル保育という、これは皆さん、どの程度ご理解しておられるのか分かりませんが、私は先日、千葉市の保育所長の会でお話をして、そのときには、千葉市の方はどうもそうではないようなんで、松戸市と千葉市は随分違うんだなと思いましたが、三つの園でどうもそのフリーセル保育というものを実行しておられると。

これは産経新聞でしたか、大きく取り上げましたので、皆様も大体ご承知かもしれませんが、例えばそこでは何ですか、1歳以上の園児にはおやつの選択の自由があると。

それから、嫌いなら牛乳は飲まなくてもいいと。

それで保護者が子供たちの発表会が見たいと言ったら、申し出たら、それは保育士が決める問題ではなく子供たちの意思で決めるべき問題だと。

つまり、これは背後にあるのは児童の権利条約なんですね。

児童の意見表明権、第12条にあるんです。

ところが児童の意見表明権の12条は「子供の発達というものの段階を考慮して」ということがあるわけです。

じゃあ、こんな乳幼児にその意思表明をする権利を認めるべきか、おやつの選択の自由を認めるべきか。

私は論外だと思いますね。

あるいは、こういうのもあります。

人気タレント香取慎吾の「慎吾ママのオハロック」という、お年寄りの方はちょっと御存じないかもしれないんですが、「オハッ」というのがあるんですけど、それを運動会のダンスで踊る際も、母親が御飯を作る歌詞はジェンダーフリーに反するとして、カラオケで演奏されたと。

御飯を作るのはお母さんだけではおかしい。

お父さんだって作る。

これは固定的な役割分担意識、差別だというわけですね。

そういうことが松戸市で行われこにあるんですけれども、問題が三つ、こういうことにかかわるものがありまして、「精子は父親のペニスの先から出るが母親のどこから入るのだろう。

人の卵は母親の体の中のどこで精子と会い、一緒になって命ができるのか。

卵の中に入れる精子は何個か。

」と、こういう問題があるんですね。

最後に「注意」というのがあるんです。

「注意、人のセックスのことは学校では教えるが、お父さん、お母さんの大切なプライバシー、自分の秘密なので、やたらに質問したり、言ったりしないこと」と。

こういうことを教わったということを家では言うなと。

質問があったら先生にしなさいと。

そういうようなことが、これは取り上げれば恐らく切りがないだろうと思うんですが、どうもこれは何が欠けているかというと、私の教育論の立場で言うと、いったい性教育の目的をどう考えているのか。

内容というもの、方法というものを適時性、発達段階に従って、子供には個人差があるし、地域差があるし、成熟度も違います。

それを画一的に一斉に教えられるということは、それは果たして教育として望ましいことなのかという、そういう学習指導論と一口で言いますが、教育論の視点から学習指導論というものが欠けているとしか言いようがない。

つまり人間教育としての性教育という視点が欠けているんです。

これは性的自己決定権ということをその性的自己決定権、自分で自分が決める人格をどう育てるかという、ここの教育が欠けている。

それがなければ、それは非常に危ういものになってしまうのであります。

例えばまず千葉の話に戻しますと、また安孫子になってしまいますが、安孫子で「男女共同参画フェスタ2002年」というのが、こういうのが開かれたという、これも送っていただいたんですが、それを見ておりましたら「平成14年度男女共同参画宣言都市奨励事業」とありまして、どういうことを奨励しているのかなと思って見ておりましたら、記念講演「文化の創造、女と男」。

いつも男と女が逆転しているのが特徴でありますね。

そして、その中に性教育が入ってまいりまして「性教育にチャレンジ」と。

5歳児を対象とした性教育実践の試みと。

5歳ですよ。

どういう中身かとつらつらと眺めていきますと、四つ柱があって、2番目の柱が「プライベートゾーンは大切だよ」というんですね。

プライベートゾーンってどこかで見たぞと思ったら、今いろいろあちこちで広がっている急進的性教育で使われている言葉なんですが、女性器について三つの穴がありますということで、5歳に対して性器のことをいろいろと詳しく教えている。

あるいは多様な家族、これは今、家庭科の教科書にどんどんどんどん出てきているんですが、同性カップルも含めた多様な家族というものを子供に、5歳児に教えている。

そして5歳児に対して、将来子供を産むときのための所だから大切にと。

こんなことを言って、5歳児が実感として分かるでしょうか。

つまり、これは発達段階というものが全く分かっていない。

これは私は押し付け教育だと思うんですが、こういうようなことが実は性教育とジェンダーフリーということが根っこでつながっているわけであります。

そして急進的性教育が男女共同参画ジェンダーフリーという追い風を受けて、どんどんどんどん広がっている。

これが今日の日本の姿であります。

その背景に何があるかということも少しお話をしておいた方がいいと思うんですが、ジェンダーフリーということは二つのコンセプトが中心であります。

一つは今日、長谷川先生がこんこんとお説きいただいたジェンダーとは何かという。

もう一つのキーコンセプトはセクシュアリティ(sexuality)というコンセプト、これもご年輩の方は何のことだと、セクシュアリティというのは意味がお分かりにならないかもしれませんが、よく性現象というふうに訳す、これは非常に珍妙なわけなんですが、性的欲望というものが自然的、生物的でないかのごとく思わせる。

これはフーコーという方がいまして、この方がいわばジェンダーフリーのバイブルになっている「知への意志」という本を書いている。

その中でこう言っているんです。

セクシュアリティとは、フランス語だからセクシュアリティというのは英語の発音ですけれども、快楽と身体、つまり「ラブアンドボディ」であると。

この二つが性的欲望の装置に対抗する反撃の拠点なんだと。

性愛と生殖とは全く関係ないのに、国家が人口を必要としたことから、家族と生殖に直結するように男女間の性愛が正常とみる考えが権力によって知とされたにすぎないと。

ちょっと難しい言葉の表現ですが、簡単に言えばゲイとかレズというものを否とする力、これを是とする知に転倒しなければならないと、こういう考え方ですね。

つまり生殖というものをリプロダクティブ、再生産、生殖するということを否定した性的要望のみが正しいというのがこのフーコーという方の基本的な考え方です。

これがこのセクシュアリティということの根底にありまして、例えば大澤真理さんに言及しますと、彼女のフェミニズムって何だろうという日本評論社の本がありますが、こういうふうに彼女は言っていますね。

レズビアンという言葉も・・・途中を省略しますが・・・異性間の性交のみを普通で、男と女の性交だけが普通だと。

普通で正常で自然であるとする制度化された偏見に閉じ込められた不幸な歴史の産物と言えるだろうと、こう言っているわけですね。

なぜ両性具有ということが出てくるかといえば、それはカタツムリ、どこかの男女共同参画の象徴になりましたけれども、カタツムリというものは両性具有、人間はカタツムリと違って両性具有同士が結婚して出産したということはありません。

私が言うまでもないことでございますが、その二つの性器を持つ両性具有、これは0.0005%だと、私は読んだんですけれども、それを子供たちに教えようということの、なぜそんなことが性教育に出てくるかという背景にはそういう考え方があるということであります。

つまり日本型のフェミニズムというものの根本には非常に非科学的なジェンダー仮説というものをねつ造して、そしてそのジェンダーを解体する、あるいは社会秩序を解体しようという、そういうことを目指している革命運動というものが実はあって、表面は男女平等、男女共同参画という非常にソフトな美しいスローガンで、そのこと自体に私どもは反対するわけではありませんが、しかし、実はそれは男女の区別とか、家庭とか家族の解体を目指している。

つまりジェンダーフリーというものと急進的な性教育は同じ穴のムジナであって、それはある意味で革命戦略の一環であります。

男女平等、男女共同参画という隠れ蓑の下で、本当に狙っていることはそういう秩序の解体と。

その真意をしっかりと踏まえた上で、そうならないような男女共同参画社会の条例を作っていくことが今求められていることであります。

そのためにはもう一つの論点、それは今、条例案の中では第27条でございますが、苦情処理機関についての規定がございます。

この苦情処理機関というものを設けることは、先ほど埼玉の勧告書の話をいたしましたが、これは実質的な制裁機関として機能いたします。

例えばアメリカでは男女別学の動きがかなりございます。

ブッシュ政権の下です。

性教育と男女共学は日本とは大分違う方向にアメリカは動いているわけですよね。

そして実際には埼玉で高校生も多くが反対した。

父母たちも反対した。

27万の署名が集まった。

そして、そういう勧告書が出たにもかかわらず、それを受け入れないという決定をどうもしたようでございますが、それはある意味で国民の良識、県民の良識というものが勧告書に従わないという結論になったわけでありますが、その苦情処理機関というものを置くことはそういう制裁機関として働く危険性が非常に高い。

ですから相談窓口、そのような形でなら可能かもしれませんが、苦情処理機関として置くことには問題があるというふうに思うわけであります。

さて、冒頭に申し上げたように、ジェンダーそのものを女性を抑圧するシステムとか、つまり男女の関係を支配と非支配、搾取と非搾取という、そういう関係で、つまりマルクス主義の亡霊的な理解でこれをとらえると、これは教育の破壊を招くし、文化の破壊を招くし、21世紀のいわゆる成熟社会を作っていく。

私のいう共創社会、本当に共に創っていく社会を逆に破壊していく、そういうものになりかねないのであります。

日本には日本の文化や伝統というものがあり、それの良さをしっかり受け継ぎながら、もちろん、日本の文化や伝統というものにない新しい発想というものは大いに取り入れていく必要があるでしょう。

つまり、先ほど冒頭に申し上げた常に紅白梅図の精神に立ち返って、その新しいものと古いものをどう融合させていくのか、そこに私たちの知恵を働かせなければならない。

今日の長谷川先生のお話の中では、棒の話をされましたけれども、綱渡り棒ですね。

その長い長い綱渡り棒、これをどうやってバランスを取っていくのか、それは日本の制度とか慣行というものの長所と欠点は裏と表です。

だから、その良さをしっかり守りながらマイナス点を乗り越えていくそういう工夫もしながら、そういう知恵を働かせながらバランスの取れた男女共同参画社会づくりのために、この千葉県の条例が全国のモデルとなるように、大変全国は注目をしております。

とりわけ性教育についてはどこにもないもので、これがもし悪しき例となれば影響は計り知れないものがございます。

そのことを繰り返し申し上げて終わらせていただきたいと思います。

ありがとうございました。

(拍手)

【司会・谷田川 元 委員長】

高橋先生、ありがとうございました。

どうぞご降壇ください。

ここでもう一度、この公開討論会の予定だったのが公開の講演会になってしまった、その経緯について若干申し上げたと思います。

我々自民党県連の条例検討委員会は、12月24日に初会合を開きまして今後のスケジュール等を協議いたしました。

そして、2月定例県議会において我々の自民党案を提出しようと、それを確認して、では準備作業に入ろうと。

やはり大事なのは推進派・慎重派それぞれかなりの議論があるなと。

やはりこれを県民の皆さんに公にして、どこが論点で、どっちの主張が正しいのか、それを公平に公正に判断する必要があるなと、そういう考えの下に条例専門部会の委員の皆さん、あるいは条例の推進派、どなたでも構わない。

とにかく学識経験者を是非派遣してもらいたい。

そして我々の方も慎重派の学者を用意しますと、そういうことを12月24日の段階で県当局に非公式に申し上げました。

そして12月26日の段階で、我々としては長谷川先生と高橋先生のお二人の先生にお願いしたいと思いますので、ぜひ、このお二人の先生と討論してもいいということを紹介してもらいたいということを投げ掛けました。

そして県の田辺総合企画部長さんから、では当たってみますと、少し時間を下さいという返答がございました。

そして年明けの1月6日に、残念ながら当たったけれども日程が合わないと、日程を変えていただけませんかということで、じゃあ分かりましたよと。

では条例専門部会の委員の皆さんの意向はどうなんですかと聞いたら、条例専門部会の委員の皆さんに当たっていませんということでございました。

私は非常に残念でございます。

県当局が是非ともこの条例を通したいとおっしゃっているのであれば、非常に我々はその条例案に問題があるということでありますので、その条例案の推進派の専門家の方の話をしっかり我々自民党は聞かなきゃいけない。

そういうつもりで我々は県当局にお願いをしたわけでございます。

そういうわけで、県当局が条例専門部会の委員の皆さんにも接触していないということだったので、これじゃ失礼なんで、私どもは1月10日付けで条例専門部会の委員、全部で7名の先生方がいらっしゃいます。

先ほどお話にあった大澤真理先生を初め7名の先生に直接手紙を出しました。

今日は1月16日でございます。

間が6日しかありませんので、当然、日程的には難しいと思いますが、とにかく2月の12日までまだ時間がございますので、是非とも2月7日までの間に日程の調整がつけば是非応じていただきたいと、そういう旨連絡しておりますが、まだ正式に、では日程が合えば公開討論会に応じてもいいという話は届いておりません。

そして、公開の場がまずいんであれば、我々自民党議員党の協議会、意見交換会を是非やりたいと思うがどうかと、そういうことも投げ掛けております。

やはり何といっても、条例専門部会の委員の皆さんは胸を張って、1年半に分けて県民の意見も聞きというふうにおっしゃっていますが、少なくとも反対派の意見をしっかり聞いたというふうには思えません。

ですから、しっかり慎重派の皆さんの声もどうなのかということを、やはり賛成反対の立場の両方の意見をしっかり聞いた上でやはり条例案がまとめられるべきだと、私はそういうふうに感じております。

そして急きょ、こういう形で推進派の皆さんの出席が今日はかなわなかったわけでございますが、他会派の皆さんにも是非出席していただきたいと。

そして、もし他会派の方が出席していただければ是非発言の機会を求めますよと。

そしてお二人の先生に是非質問していただきたいと、そういうふうにお願いしましたが、残念ながら、どの会派の皆さんも今日お見えになっていないようであります。

ただ、ここで是非、私は条例推進派の人間ですと、是非、高橋先生あるいは長谷川先生に反論したいという方がありましたら、まずお手を挙げていただきたいと思います。

優先的に発言していただきたいと思います。

いらっしゃいませんか。

県の職員の方もいらっしゃるようでありますが、是非、質問していただきたいと思います。

マスコミの方もいらっしゃいますが、公平な立場でこれだけは質問したいということがありましたら、是非、手を挙げて質問していただきたいと思いますが、いらっしゃいませんか。

では、いらっしゃらないようなので、非常に残念でありますけれども、どなたでも結構です。

是非、これについて質問したいという方は挙手を願いたいと思います。

はい、では、どうぞ。

【男性1】

茂原のミツハシと申します。

2点ほどお聞きいたしますけれども、男女共同参画条例が、一つは少子化対策につながるんだというお話がありますけれども、ちょっと私はどうかなという思いがあるんですけれども、その点1点と、2点目はジェンダーフリーという考えが日本の社会、制度、仕組、家庭を変える思想だということだと思っておったんですが、先ほど長谷川先生のアズマヤドリのお話や高橋先生のお話から、よく分かったわけですけれども、逆に言いますと、こういう今のお話があった中で、こういう男女共同参画社会が進みますと、将来、逆の立場で、推進されたときにどういう社会になるとお考えでしょうということなんですけど。

以上2点です。

【司会・谷田川 元 委員長】

では、長谷川先生、お願いします。

【長谷川 三千子 埼玉大学教授】

それでは第1の質問について、むしろ少子化対策に男女共同参画が有効であるという、このご質問に大澤真理さんに成り代わって、まずお答えいたします。

大澤さんのこのご本で、まず第1にそれがうたってあるところなんです。

少子高齢化を乗り切るためにも男女共同参画は有効であると。

で、なぜかと言いますと、少子化の主な要因は、性別分業が固定的なために結婚の敷居が高く、若い人々が結婚を先送りしていることにある。

この「性別分業が固定的なために結婚の敷居が高く」というのは具体的にどういうことかというと、女性に関してはまず子育ては全部女性の肩に掛かってくる。

これは重荷である。

男性に関しては自分は妻子を養わなければならない。

そのためにはたくさん稼がなければならない。

これは重荷であると。

で、男女共々敷居が高くて結婚ができないと。

これを完全に両立型、つまり男性も女性も半々ずつ働いて、半々ずつ家庭の仕事をするというふうにすれば敷居が低くなるので、多分、少子化は解決するであろうと。

もう一つ、それをサポートする統計として、男女共同参画の度合いの高い先進国では比較的少子化がストップされて、出生率が回復しているということをおっしゃっていらっしゃるんです。

ただし、これは割合どこででもよく言われていることなので、これは大澤さんに限らず、大多数の人の議論と見ていいと思うんですが、私自身はこれは大分大きな穴があると思います。

つまり比較する場合には、日本とほかの国のその制度の差と出生率の差を比べても、もともと体格の違う人間の身長・体重を比べるようなもので、むしろ日本自体がどうだったかということを振り返って見ればいいと思います。

少なくとも50年前、今よりも男女の性別・役割・意識というものははるかにはっきりしていました。

そういう意味では、はるかに結婚の敷居は高かったわけですが、当時の出生率は今の倍あったわけです。

それを考えてみますと、とてもこの方は若い男女に同情的でいらっしゃるんですが、これはちょっと逆の議論ではないか、むしろ、こういう意識を育ててしまった現在のジェンダー崩壊こそが一番の問題ではないかと私自身は思っております。

で、その点に関して、むしろ少子高齢化を乗り切るために、長い目で見るとジェンダー崩壊ではなく、ジェンダー回復が大事ではないかというふうに、私自身は思っております。

大澤真理と長谷川からのレポートでございます。

【高橋 史朗 明星大学教授】

私の方は、では2点目についてお答えしたいと思いますが、男女共同参画ということがジェンダーフリーという誤解の進むことによって、いろんな弊害が出てくるだろうと思うんですが、もう既に出ていることがいっぱいありまして、例えば教育の現場のお話からいきますと、男女混合名簿というのが、かつては、十数年前はまだ広がっていなかったわけですね。

ところが空気のようにどんどん広がりました。

それは男女混合名簿というものを一点突破口として、その固定観念の意識を変えるための戦略として出てきているわけです。

そして、くん付け、さん付けというものをやめようと、男の子を「くん」、女の子を「さん」というのはこれは差別だと、区別することは差別だという、区別を差別だというのがジェンダーフリーの発想ですから、そこで例えば、私が驚きましたのは東京女性財団が作ったジェンダーフリーというビデオがあります。

性教育ビデオがあります。

それは国立の小学校でやっている授業ですけれども、まず、低学年の子供たちにランドセルを全部前に持ってこさせるわけですね。

そして男の子には赤いランドセルをさせて、女の子には黒いランドセルをさせて、「男の子色ってありますか。

女の子色ってありますか。

」と聞いて、子供たちは、まあ、ちゅうちょしている。

それを1時間掛かって、「男の子色ってない。

女の子色ってない。

」というところまで持っていって、全員が言うと「はい、終わります。

」という、こういう授業なんですが、それで国立の小学生、1年生たちがどういう状況かというと、そういう教育をすれば、本当はいろんな赤い色も黒い色も、いろんなランドセルがあればいいんですが、女の子が黒いランドセルをして、みんなが黒いランドセルをしているケースが非常に多いんです。

つまり、それは女性の男性化を招いているだけだと。

結果的にはですね。

それはこういう状況が広がれば、どういう社会になるかということを一つ暗示している一つの例ではないかと思うんですけれども。

あるいは、福岡県に参りましたら、福岡県は福岡教育連名という先生方が2000人いる、私は健全な県だと思っていますが、そこの福岡県でも男女が同じ部屋で着替えをしていると。

以前はどうでしたかといったら、男は奇数、女は偶数部屋でやりましたと。

なぜ、今はそうなんですかといったら、それは男女を区別することが差別につながるという考え方があるからだと。

あるいはトイレにおいてすら、赤と黒、青、そういうものを色をピンクに変えるとか、そんな学校まで出てきたと、そんな例も聞いたことがありますし、あるいは先ほどチラッと、これは確認をしなければなりませんが、この千葉県の中でも小学校5年生の子が妊娠したという話を聞きました。

つい、最近ですね。

小学校5年生同士だと聞きましたが、つまり、産む産まないを決めるのはあなた方ですよと。

で、中学生にもセックスをするかしないかを大人が言うことはできない。

親や教師がとやかく言う筋合いはない。

自分で考えろと。

それはかつて10代で、子供が子供を産んでいるというアメリカの状況、私は同じ状況が日本に生まれてこないとは限らない。

それは自分の自由なんだという、その性の自己決定権というものが誤った自由のはき違いにつながるという。

あるいはもう一つ、私が一番実はもっと大きな問題として懸念をしておりますのは子育て支援の問題なんです。

今、私は保育の専門家でも何でもありませんが、私に一番今講演に来いと言ってくるのは保育の世界でございます。

それは3歳児以下の子供たちの保育がどんどん増えているわけですね。

つまり待機児童ゼロ作戦ということで、まだ保育園、保育所に入れない子がたくさんいるわけです。

そのために延長保育をどんどん時間を延長して、東京なんかは13時間保育がもう当たり前、そうすると、子供は10時間大体寝ますと1時間しか残っていないわけです。

そして早く子供が預けられて、遅く子供が引き取られていくと、もうほとんどが親子がコミュニケーションをする時間がない。

そして子育てを支援する支援者をどう育てるかということを一生懸命やっているんですが、もっと親をどうするかという話が吹っ飛んでしまっている。

なぜそうなってきたかというと、拍車を掛けたのは、皆さんご承知だと思いますが、平成10年度版の厚生白書で「3歳児神話は少なくとも合理的根拠がない」と書いた。

これを書いたのは、日本保育協会という雑誌によれば、課長補佐が書いているんですが、そこにどういう事情であれを書いたかということを、舞台裏を書いていますね。

私は読んで大変がっかりしましたが、余り意欲がわいてこなかったんだけれども、その3歳児神話を否定するものを書いたら、これは非常に価値があるんじゃないかと、そう思って最初は意欲はなかったけれども書いたんだというようなことが書いてあって、そして、その母親のかかわり、かつては母子相互作用研究班というものを旧厚生省は作って、母親がかかわることが大事なんだということを強調してきたわけです。

私が臨教審という政府の審議会にいたときも、中間報告ではいじめっ子は3歳児で発見できるという中間報告が出ました。

それは3歳児までに母親がどれだけの愛情と信頼を与えたかということ、これはベイシックトラスト、基本的信頼感と言いますが、それが大事なんだということを強調してきた。

しかし、最終答申にはそれは消えました。

恐らく3歳児というのは根拠がないということをだれかが言って、恐らく引っ込めたんじゃないかと、今から思えばそう思うんでございますが、それに対しては、実は脳科学、脳神経科学、今、「幼児教育と脳」という本を書いた澤口俊之北海道大学の先生、あるいは「ゲーム脳の恐怖」、森昭雄さんが書いたものを読みますと、その脳の発達というのは子供たちの8歳から10歳ぐらいに大きく成長するわけですね。

その脳の発達において母親のかかわりというのは非常に重要だということを脳神経科学の立場で研究成果がどんどん出ているわけです。

そういうことから考えますと、今、父性、母性という言葉を使うなと、家庭科の教科書にも父性、母性じゃなくて、育児性という言葉を使いなさいと書いてあるんです。

それは文部科学省の子育て支援の座長が大日向雅美という方で、この方は母性の研究という本を書いていて、父性、母性という言葉でなくて育児性を使えという、そういう発想が文部省の懇談会の座長の考えとして出てきている。

ですから家庭教育に原点があるという心の教育の答申を出して家庭教育手帳が出ました。

こんなのがですね。

それから、家庭教育ノートというのが出ました。

そして昨年度からは心のノートというのが小学校低学年1冊、中学年1冊、高学年1冊、中学生1冊、出ているんですが、上から心を教え込むことはできないという日教組の先生方の反対で、実際には現場には十分に降りていない。

親の元にも届いていない。

親に向けた文部科学大臣のメッセージもあるんですが、私は今年、日本PTA全国大会で基調講演をさせていただいたので、多くの方に知っていますかと聞きましたが、1割もいないですね。

知っている方は。

つまり、一方で心の教育が大事だと言いながら、一方で文部省の子育て支援の方策が実は母子の絆を破壊したり、あるいは父性母性を否定する方向に動く、そういう傾向の中で、実は非常な矛盾が起きているわけです。

教育基本法改正の中では伝統を尊重しようという、一方でそういうことを言いながら、男女共同参画というこの第5条の男女共学のことをどういうふうに改正するかによっては、文化破壊につながらない伝統文化を大事にしようという改正を一方で考えながら、一方でそれを否定しかねない改正もあり得るという。

その意味でジェンダーフリーということについては、そういう大きな様々な問題が起きてくるんじゃないかというふうに思います。

以上でございます。

【司会・谷田川 元 委員長】

はい。

では、どうぞ。

【男性2】

浦安から来た大谷と申します。

両先生の質問じゃなくて、自民党の方にちょっとお願いがございます。

今日は実は推進派の方にいろいろ質問したいと思って来たんですけれども、肩すかしを食ったんで、これは自民党の方に是非、これからすり合わせていただきたいということでお願いします。

県の条例を見ますと、16条に学校教育並びに生涯いろんなところのあれで、この男女共同参画社会の精神をどんどん進めていくと。

それで、この環境を保護して、こういう環境整備をするというようなことが書いてあるわけですね。

それならば、今、学校教育はどうなっているんだと。

先日、ちょっと家庭科と高等学校の教科書を見たんです。

これは今、男も女も家庭科一般というのを受けないといけない。

この家庭一般という教科書を一例として、実教出版ですか、これの家庭一般21という教科書を見ました。

これは第1章に「人生を開くパートナーを求めて」とか「らしさを否定する」というようなことが書いてあります。

これはまさに両先生がおっしゃったようなことがずっと書いてあります。

で、ジェンダーというのは生物学的に、要するに女が子供を産める、男は産めないと、これだけだと書いてあるんです。

その教科書に。

それで文化的な差異というのはほとんどないんだというようなことが書いてあります。

これを是非、今日、ご出席になった方がこの「家庭一般」という教科書を一遍見ていただきたい。

これは実際面も進んでいるんですよ。

学校教育にどんどん・・・。

【司会・谷田川 元 委員長】

発言は簡明に願います。

ほかの方も発言させていただきますので。

【男性2】

はい。

ということで、皆さん、読んでいただきたいと。

で、自民党の議員の方は特に読んでいただきたいということです。

【司会・谷田川 元 委員長】

はい、ありがとうございました。

ほかにいらっしゃいますか。

前の方、どうぞ。

なお、会場は、ここは3時半に終わりにしなければいけませんので、一人1分以内でお願いします。

【男性3】

千葉市稲毛区から参りましたイリノと申します。

私も両先生のお話というか、質問ではなくて、自民党の先生の方にお願いしたいんです。

といいますのは、今日お話もありましたように、千葉県はジェンダーフリー教育を既に公式文書で出しております。

これについては、私も教育長に抗議に何回か行っております。

取り消せということを言っておりますが、先日、県議会を傍聴しました。

そのときに堂本知事は何と言ったか。

国は使うなとは言ってない。

国は確かに公式文書でジェンダーフリーという言葉は使っていないけれども、使うなとは言っていないから私は使いますと。

こういうことを堂々と、堂本知事は答弁しているんです。

そのときに自民党の先生方は黙っておられた。

これは非常に私は残念至極にもうたまりません。

是非、これを自民党の先生方は追求をしていただきたいと、こういうふうに思います。

【司会・谷田川 元 委員長】

はい、ありがとうございました。

では、そちらの女性の方。

【女性1】

私はオカモトと申します。

お二方の先生方にお伺いしたいのは、長谷川先生にはジェンダーを胸を張って大事にしたいというふうにおっしゃいましたけれども、私自身も迷っているんですが、ジェンダーというデルフィが概念化したという、そのジェンダーということを持ち出した瞬間に、やっぱり機会の均等から結果の平等まで、もう規定されるような気がするんですけれども、その点、ジェンダーというものを今後私たちが使い続けていいのかどうか、それをお伺いしたいということと。

高橋先生には、ジェンダーフリー教育は83年ごろからものの本によると実施されていたということを読みました。

日教組とかも先駆けてやってきたわけですけれども、これはどういうところから日教組が指令を受けてやり始めたのか、更にパワーアップして、今も何かを考え続けているかもしれない、可能性があるかもしれない。

そういうところをちょっとお聞きしたいなと思いまして、ご質問します。

【司会・谷田川 元 委員長】

分かりました。

では、時間の関係でこれを最後の質問にしたいと思いますので、恐れ入りますが、2分ずつで、なお意見等がございましたら、自民党県連までお手紙あるいはファックス等をお送りいただきたいと思います。

どうぞよろしくお願いいたします。

それでは長谷川先生よろしくお願いします。

【長谷川 三千子 埼玉大学教授】

手短にお答えいたします。

ジェンダーという言葉を胸を張ってお使いになって大丈夫です。

というのは、ジェンダーという言葉はラテン語から来ていまして、生まれるという、生まれつきという、そういう意味がもともとなんです。

つまり生まれつきどういう性格を持っているか、その性質を大事にするのがジェンダーという言葉の原義で、それをフェミニストたちがいろいろにひっくり返して使っているのが今のジェンダーなんです。

ですから、我々が言っているのは元祖ジェンダーだと言えば大丈夫です。

これで終わりです。

【高橋 史朗 明星大学教授】

私が今手元に持っている資料の中に、日教組の中の国立の支部がどういうふうな流れで運動をやってきたかという一覧がございまして、これを見ると1982年、ここから男の子、女の子の問題を取り上げたということがありまして、そして性教育の問題を本格的に出してきたのは1988年、ここで男女平等教育の取組の一環として、性教育に視点を当てるということが出てまいりまして、翌年はどろんこ祭りという、これは男の子、女の子。

女の子らしい男の子がどろんこを塗るということによって本来の男らしさ、女らしさを取り戻すという、これが差別だというんで削られた。

それから日教組の教研、教育研究集会に出てきたのは1990年、そして91年に山本直英という方が男女平等の視点から見たという性の教育の話をして、性教育に重点的な取組が始まったと。

つまり、どうもこの動きの起点は恐らく国立支部の女性部ですか、日教組のですね。

そこが全国に発信して、例えば大阪は高槻とか、全国にいろいろな拠点があるんですが、そして日教組全体の教研集会の中で様々な報告や運動方針の中で実は組織的に展開されてきている。

そういう資料もたくさん、例えばここに時間ですけれども、東京教組が出した記録がございます。

こういうものが各県ごとにありますが、組織的に展開されてきている。

これはまさにジェンダーフリー、男女共同参画、性教育、全部一緒になっているわけですが、運動方針の中にもそういうことが出てまいりますので、実は日教組という運動と一つはセットで見ていかなければならない、あるいは急進的性教育の流れも、きちっとその一環の中で見ていく必要があるんではないかと、そういうふうに思っております。

【司会・谷田川 元 委員長】

はい、ありがとうございました。

先ほど申し上げた中でちょっと言い忘れたことがありましたので。

公開討論会に際しては、自民党県連が運営しては非常に偏った流れになるかもしれないので、運営・司会等は第三者の中立な人を用意しますと。

そして聴衆についても一方に偏らないように配慮しますと、そこまで申し上げて公開討論会については申入れをしております。

現在までのところ、まだ参加に応じてもいいというご返事は頂いておりませんが、しかし、やはり我々自民党としても、できるだけいろんな方の意見を聞きたい。

単に慎重派だけじゃなくて、推進派の皆さんの熱意というのをそれなりに感じたいと思っております。

ですから、今日のこの聴衆の中にも、恐らく推進派の方もいらっしゃると思います。

勇気があって発言してもらえなかったと思いますが、是非ファックス等、あるいは手紙等で、今日のことについて反論をお寄せいただきたいと思います。

そのことを最後にまたお願いしたいと思います。

本当に長時間にわたりまして、今日の公開講演会にご出席いただきまして、ありがとうございました。

改めて厚く御礼申し上げます。

そして長谷川先生、高橋先生に大きな拍手をお願い申し上げます。

(拍手)以上で終了させていただきます。

本当にありがとうございました。

(終了)

主催者挨拶 堀江秀夫政務調査会長